監修:仏教教育事務課
「これ、なんだろ?」
武蔵野キャンパスの中にあるふと足をとめてしまうモニュメント。
いつからそこにあるのか。どうしてそこにあるのか。
そのひとつひとつには、先人たちの仏教にまつわる深い想いが込められていました。
知られざるストーリーをひも解きながら、武蔵野キャンパスをゆるっとおさんぽしてみませんか?
武蔵野キャンパス編 -後編- を案内してくれるのは、仏教教育事務課のアオヤマ課長です。学内で行われる法要でお勤めされることもあるので「見たことある!」という方もいらっしゃるのでは?前編では追い切れなかったアレコレ、アオヤマ課長にさっそく案内していただきましょう♪




武蔵野キャンパスの圧倒的センターポジションといえば、そう!雪頂講堂です!
大学礼拝、シンポジウム、摩耶祭・樹華祭の講堂企画など、武蔵野キャンパスで行われるイベントのほとんどがここ雪頂講堂で行われます。建物内部・外観から溢れ出るヴィンテージ感、ステージ上の趣あるアイテムの数々。ここにはきっとさまざまなストーリーが隠されているに違いありません!
まずは雪頂講堂誕生の背景をアオヤマ課長に教えて頂きましょう♪

雪頂講堂は学院創立60周年記念事業の一環として、かつて「第一講堂」があった場所に1986年(昭和61年)2月に再建されました。
中央区築地から武蔵野に校舎が移転されたのが1929年(昭和4年)ですから、50余年の歴史を持つ「第一講堂」に思い入れのある方も中にはいらっしゃるのではないでしょうか?
雪頂講堂の1階ロビーには木造本館第一講堂の模型も展示されています。雪頂講堂は第一講堂の規模を継承しているので、見比べてみるのもよいですね♪
「雪頂講堂」という名前は、学祖高楠順次郎先生の雅号「雪頂」にちなんでいて、学生や一般からの公募で決まりました。「雪頂」とはよごれのない真っ白な雪を永遠に頂いているヒマラヤのことを指しています。仏典において「ヒマラヤ」は人の世の垢をきよめる「仏の法」に例えられていて、学祖高楠順次郎先生はこの「雪頂」という雅号を好んで使われていました。
講堂の入口上部に掲げられている「雪頂講堂」の文字は高楠先生の自筆文字を苦心して集めたものとのこと。高楠先生って達筆だったのですね。雪頂講堂に入る際には上を見上げてぜひその文字にも注目してみてください♪

ここで時計の針を巻き戻してみましょう。時は1986年(昭和61年)2月。完成したばかりの雪頂講堂では「60周年記念館 雪頂講堂入仏式」が執り行われていました。
「入仏式」とは、新しいお仏壇にご本尊をお迎えする儀式のことをいいます。当時の雲藤義道先生(4代学院長)はこの入仏式で、紅雲台に移していた御名号(ご本尊のこと)を雪頂講堂に無事安置できた喜びや、仏壇ふすま絵・緞帳にまつわる制作秘話もお話しされたそう。
「はて。御名号とは?」「あのふすま絵、すっごく気になってました!」という方のために、その知られざる秘話を一挙ご紹介いたします!
\ アイテム 1 / こちらがご本尊!「南無阿弥陀仏」の六字名号(ろくじみょうごう)
雪頂講堂ステージ上のお仏壇に安置され、いつもわたしたちを静かに見守ってくださっているのがThe ご本尊「南無阿弥陀仏」の六字名号です。こう言われてもまだピンとこない方も多いかもしれません。注目すべきは掛け軸に揮毫された「南無阿弥陀仏」の六文字なのです。

「名号」とは「南無阿弥陀仏」そのものを指しています。ちなみに「南無」とは古代インド語の「namas」「namo」などの音写(当て字)であり、「帰依する(信じる心をもってお任せする)」という意味になります。つまり「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依します」という意味になるのです。
ご本尊といえば「木像」「絵像」を想像される方も多いかもしれませんが、親鸞聖人はこの六字名号(南無阿弥陀仏の六字のこと)を生涯、大切にされました。
雪頂講堂のご本尊は、本願寺第23代宗主である勝如上人(光照前門主)が昭和22年11月に揮毫されたもので、名号に添えられている蓮台は野生司香雪画伯によるもの。入仏式にあわせて表装もきれいになりました。意味をきちんと理解すると、蓮台の上に仏さまが立っているように見えてくるからふしぎなものです。
\ アイテム 2/ ただならぬオーラをまとう、ふすま絵の飛天
ステージ上でひときわ目を引くのが飛天の描かれたふすま絵です。二体の飛天の慈愛に満ちた面差し、体を縁取る柔らかな曲線、深みのある色彩。「よくわからないけど、これはきっと何かものすごいものに違いない!」と思っている方も多いのでは?
このふすま絵は京都の画家・今井弘一氏が「敦煌壁画様式」で描きました。中国敦煌市にある仏教遺跡「莫高窟」を埋め尽くす壁画には、文字の読めない人々にも仏教の教えを伝えるため、釈迦の前世の物語や経典の内容を絵で表現した「経変」が数多く描かれています。
ちなみにふすま絵の左側の飛天は天楽を奏し、右側の飛天は天華を献じていて、奏楽と献華で仏さまを供養している図を描いているとのこと。「確かに…!」と絵の解像度もグッと上がったところで、改めてこのふすま絵、じーっくりと眺めてみてくださいね♪
参考文献:「敦煌壁画の仏教物語 / 敦煌文物研究所編 土井淑子監修(恒文社)」
\ アイテム 3 / その迫力に思わずのけぞる!ヒマラヤを描いた大緞帳
雪頂講堂で行われるイベントの幕間に下りてくる大緞帳。一面に織り込まれたヒマラヤ連峰の雄大な姿は実に圧倒的で、見上げると後ろにひっくり返ってしまいそう!
この迫力の大緞帳は京都の川島織物が製作、学院後援会から寄贈されたもの。図柄は言うまでもなく高楠先生の雅号「雪頂」がモチーフとなっています。入仏式で雲藤義道先生(4代学院長)は大緞帳についてこのように述べられました。
「朝日に輝く壮大なるヒマラヤ山頂の千古不融の雪山である。
まさに、学祖高楠順次郎の号した「雪頂」そのものである。
永く雪頂講堂の象徴たらんことを
念ずるものである」

真っ白な雪を永遠に頂くヒマラヤを「千古不融」という言葉で表現された雲藤先生。緞帳に描かれたヒマラヤに、雲藤先生の思いも重なってみえるようです。
\ コレも気になる! / ドイツからやってきたパイプオルガン
報恩講や彼岸会などの仏教行事で荘厳な音を響かせるパイプオルガン。「仏教なのになぜにパイプオルガン?」とふしぎに思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
浄土真宗には、仏教の教えや信じる心のよろこびを歌で伝える「仏教讃歌」と呼ばれるものがあります。これは、明治時代に西洋音楽の影響を受けて生まれたもので、パイプオルガンの豊かで力強い音色に包まれることで、聴く人の心にいっそう深く響くものとなる、というワケです。
さてさてこのパイプオルガンですが、学院創立60周年記念事業の一環として仏教伝道協会から寄贈されました。
西ドイツ(当時)のヴェルナー・ボッシュ社製の非常に高価なもので、1988年(昭和63年)7月29日から1カ月かけて西ドイツから船で輸送されてきたとのこと。西ドイツというのがなんとも時代を感じさせますね。
このパイプオルガンには大小あわせて2112本ものパイプが内臓されていて、その組立て・調整には高度な技術が必要ということでヴェルナー・ボッシュ社の技師たちが来日して9月初旬に組立てをスタート。11月末にやっと完成したんだそう(驚)!
遠路はるばる海を渡り運ばれてきたパイプオルガンの音色は、様々な仏教行事やパイプオルガンコンサートなどで聴くことができます。機会があればぜひ足をお運びください♪

雪頂講堂のロビー正面にどーんと鎮座するのは学祖高楠順次郎先生の胸像です。その眼光の鋭さに多少腰が引けつつも「立派な口ひげだなぁ」とか「結構福耳なのね」なんてしげしげと眺めるのもよいものです。
さてこの胸像、一体どういう経緯で作成されたのでしょう?

武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)の生徒を中心に「高楠先生の壮年の頃の元気なお姿を胸像にしてほしい!」との声があがりました。そこで、武蔵野女子学院高等学校の14回生から22回生までが卒業記念の寄付金を積立て、それに学院や有縁の懇志を加えて、1970年(昭和45年)5月21日の同慶節の日に立派な胸像が完成しました。
作者は島根県出身の塑像家池田佳穂氏。池田さんのアトリエに高楠先生の直弟子の山田龍城先生(3代学院長)、石津照璽氏、英ヒロ子氏などが集まり、高楠先生の姿かたちをじっくりと検討して完成させたそう。
胸像は当初紅雲台の玄関に置かれていましたが、雪頂講堂の完成にともなって1階ロビーに定置されることとなりました。
1階ロビーには胸像のほかにも、高楠先生の学生時代のノートや1944年(昭和19年)第四回文化勲章を受章されたときの礼服など、その功績を偲ぶ貴重な資料も展示されていますので、胸像とともにご覧ください♪

雪頂講堂と大学図書館のちょうど間に建てられた石碑に「なんだろう?」と足をとめた方もいらっしゃるのではないでしょうか。この石碑は「散華乙女の記念樹碑」と呼ばれており、そのかたわらに植えられた侘助(椿の一品種)は、冬になるとまるで可憐な乙女のような白い花を咲かせます。
さて、この石碑にまつわる悲しいお話をご紹介させてください。
時は1944年(昭和19年)。太平洋戦争の戦況が厳しさを増すなか、武蔵野女子学院高等女学校の生徒たちは、学徒勤労動員として中島飛行機武蔵製作所で航空機増産のため連日けんめいに働いていました。
武蔵野の地が初めて空爆の恐怖にさらされた日から9日後の12月3日、4人の生徒が空襲に遭い尊い命を落としました。校庭に落ちた6発の爆弾のうち1発が、避難していた掩蓋壕に命中してしまったのです。この4人はその後「散華乙女」と呼ばれるようになりました。

当時の武蔵野女子学院高等女学校の鷹谷俊之校長はその爆弾跡に土壇をつくり、侘助を植えて哀悼の記念樹としました。しかしながら侘助が成長するにつれ記念樹の由来を知る人も少なくなっていきました。そこで記念樹の由来を記した碑を建てる計画が立てられたのです。
その話を聞きつけた石材商「石正園」のご主人が台石を寄贈してくださり、その台石に黒御影石の碑文を刻み、1978年(昭和53年)12月「散華乙女の記念樹碑」が建てられました。
本法人では毎年12月3日、犠牲となった4人の乙女を追悼するとともに戦争の悲惨さを後世に伝えるため、散華乙女の記念樹碑前にて「散華乙女の追悼会」の法要が執り行われています。またこの時期には、雪頂講堂1階ロビーで「散華乙女追悼写真展」も開催されます。
12月3日は散華した乙女たちに思いを馳せながら、いのちや平和について立ち止まって考えてみる時間にしていただくのもよいかもしれませんね。
※散華乙女の追悼会は12月3日が土日祝日の場合、その前後日に執り行われます
仏教ゆるさんぽ ~武蔵野キャンパス編 後編~いかがでしたか?
学祖高楠順次郎先生の建学の精神や、それを受け継いでいこうという先生方の強い想い。そしてそこかしこから感じられる先輩たちの息吹。解き明かされたストーリーを片手に、あらためて武蔵野キャンパスを「ゆるさんぽ」してみてくださいね♪
























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