武蔵野マガジン

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平和の尊さを強く感じて|島津好江さん

文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=小黒冴夏

島津好江(しまず・よしえ)さん|散華乙女追悼会 くれない会平和学習会の語り部
東京都出身。旧姓は中村。1952年3月に武蔵野女子学院高等学校を卒業。1954年3月に武蔵野女子短期大学の家政科を卒業。現在の武蔵野キャンパス周辺に1万2000坪ほどの土地を持つ地主の長女として生まれ、当時としてはめずらしく自宅に電話やトラックがあった。父の影響で幼いころにピアノを始め、母校にピアノを寄贈している。曽祖父は1889年(明治22年)の武蔵野村の誕生に携わった。美術が得意で、絵画展で朝日新聞社賞を受賞した経験もある。現在は「むさしのFM市民の会」の運営員も務める。

終戦の年の4月12日、自宅も爆撃を受ける

80年ほど前の出来事なのに、記憶は鮮明だ。文字どおり、言葉があふれ出てくる。

脱走兵を手厚くかくまった父。武蔵野女子学院高等学校の入り口付近に爆弾が落ちてできたすり鉢状の大きな穴。戦時中、校舎で寝泊まりしていた高射砲の兵隊たち。兵隊靴のせいで凸凹になっていた学校の床。大きな農家である自宅に東北などの地方から働きに来ていて、やがて召集令状を受けて戦地に送られた十代の少年たち。登下校時にわが家にさつまいもを食べにきた友人たち。進駐軍相手に一緒に絵画を売った義足の青木さん。「それでね」と息継ぐ暇もなく続ける話には、絶えず戦争の影が見え隠れする。

子どものころに太平洋戦争を経験 子どものころに太平洋戦争を経験

島津好江さんは1933年(昭和8年)に、当時、武蔵野町と呼ばれていた一帯の地主である中村家の長女として生まれた。第二次世界大戦の一局である太平洋戦争を経験している。初めて爆撃に見舞われたのは小学5年生のときだ。1944年(昭和19年)11月24日、警報を受け学校の班で帰宅している途中に目の前に爆弾が落ちた。近所の人に手招きされるまま防空壕に避難し、命からがら生き延びることができた。ふと振り向くと、爆弾が跳ねた大きな跡が見えた。

翌1945年(昭和20年)には自宅も空爆に遭っている。島津さんはありありと思い出す。

「ちょうど終戦の年ですよ。4月12日のことです。うちの畑には高射砲が6門あったので、そこを狙われたんでしょうかね。11戸あった建物は全滅しました。高射砲は吹き飛んだし、そこにいた兵隊さんが大勢亡くなりました。体がばらばらに飛び散ってしまって、私たちは肉片や骨を素手で拾い集めたんです。私の家族は無事でしたけれど、近所の家では10人の方が亡くなってしまいました」

それから4カ月後の1945年8月15日、どうやら敗戦したことを知る。島津さんは「うちは空襲を受けていてラジオも通じなかったから、いわゆる玉音放送は聞いていないんですよ」と振り返る。人づてに聞いたのかどうか、ある兵隊が終戦を教えてくれたのだという。真夏の暑い日、戦禍に怯える生活がようやく終わった。

「バレーボール部では私のファンクラブがあったんですよ」

武蔵野女子学院高等学校に入学したのは、自宅から近かったからだ。父の妹たちが卒業生だったのも影響した。終戦からまだ3年ほど、青春時代は戦後の混乱期とともにあった。島津さんは言う。

「とにかく食べ物がなくて、お弁当はさつまいもだけの人が多かったですね。うちは農家でお米があったからお弁当箱にちゃんときれいに詰めてくれるんですよ。すると男の先生が見に来てね、『うまそうだなぁ、食わせてくれよ。腹が減って立ってられないんだ』って言うんです。女子学院ではさつまいもを育てたり、構内にあった栗林から栗を収穫したりしていましたよ」

お金も物も食べ物もない時代、制服を着ている人はほとんどいなかった。体育の時間はリヤカーとスコップを使って爆弾の穴を埋めた。戦後の慎ましく混沌とした時期を振り返りながら、けれども、島津さんは明るく「でも、楽しかったんですよ」と繰り返す。たとえば冬になると、学校の入り口近くに落ちた爆弾のせいでできたすり鉢状の大きな穴に雪が積もり、みんなで底まで滑り落ちてはしゃぎ合ったという。

楽しかった思い出は数え切れないほどある。現在グラウンドがある場所に、当時は野外劇場があった。なだらかな窪地を囲むように、横になった松の木に座って国語の青空教室を受けたり、昼食を食べたりして、ともに笑った。島津さんはいたずらそうに話す。

寄贈したピアノは紅雲台にある 寄贈したピアノは紅雲台にある

「国語の本を読んでると、気持ちよくて芝生で寝ちゃう人がいるんですよ。だからみんなでね、ちょっと意地悪してそっと帰るわけ。『寝かしといてやろう』って言って、教室に帰っちゃうの。それから、野外劇場のそばには堆肥があって、ちょっと足で蹴るとカブトムシの幼虫がいっぱい出てくるんですよ。それを誰かの空っぽになったお弁当箱に隠して、『帰ったらお母さんがびっくりしてたわ』なんてね。なんて言うのかね、まあ、のどかでしたよ」

女子学院時代には部活動にも打ち込んだ。バレーボール部と山岳部、新聞部と美術部、それから書道部と活発な時間を満喫した。島津さんは「山岳部では先生たちと尾瀬沼にも行きましたし、バレーボール部では私のファンクラブがあったんですよ」と笑みをこぼす。

在学中の思い出がどれものびやかなのは、戦争が終わったからだ。女子学院に通う少女たちは、ようやく訪れた平和を全身で謳歌していた。

散華乙女追悼会 くれない会平和学習会の語り部として活動を続ける

時計の針を巻き戻す。武蔵野の地が初めて空爆を受けてから9日後の1944年(昭和19年)12月3日、戦闘機をつくっていた中島飛行機武蔵製作所の勤労動員だった武蔵野女子学院高等女学校の4人が空襲に遭い亡くなった。不運にも、校庭に落ちた6発のうちの1発がえんがいごうに命中してしまったためだ。まだ幼かった島津さんは様子を見に学校を訪れ、乱れ散った足の肉片を目の当たりにした。

犠牲となった4人は「散華乙女」と呼ばれている。当時、掩蓋壕があった場所の近くには現在、散華乙女の記念碑が置かれ、その後ろには哀悼の意を込めて植えられた寒椿の木が伸びている。毎年12月3日には散華乙女の追悼会が行われており、この不幸を知っている島津さんは、追悼会のあとに行われているくれない会平和学習会の語り部として活動を続けてきた。島津さんの顔が引き締まる。

「私は武蔵野市非核都市宣言平和事業の公募委員も務めているんです。生きているうちは戦争のひどさを伝えないといけないでしょ? やっぱり体験しているかしていないかの違いは大きいですし、顔を見て伝えたいですよ。食べ物がなかったこともそうだし、空爆のことも教えますし、それこそ配給とは何か、防空頭巾とは何かから話をしています。武蔵野の中学校にもずいぶん長い間来て、一緒にすいとんをつくって食べましたよ。『当時はこんなに美味しくはつくれなかったのよ』って言いましたけどね」

「それでね」と進める話は、また戦後の楽しかった思い出に戻っていく。学校の1階に住み、お昼ごろにはさんまを焼いていた山本先生。朝一番の電車に乗って東京駅に着き、駅舎を描いた夏休みの一日。進駐軍相手に飛ぶように売れた東京駅の絵。記事に加え、挿絵も書いた学校新聞の『菩提樹』。学校に泊まり、調理室でご飯を炊いてみんなで食べたカレーの味。息継ぐ暇もなく続ける話には、絶えず楽しげな雰囲気が漂う。

戦争の悲惨さを骨の髄まで知っている。だからこそ平和の尊さを強く感じてきた島津さんの笑顔は、どこまでも優しい。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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