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12歳の春から武蔵野で|白鳥仁恵さん

文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、小黒冴夏

白鳥仁恵(しらとり・ひろえ)さん|武蔵野大学附属幼稚園副園長、中高幼保事務部参事
広島県呉市出身。旧姓は松村。1974年3月に武蔵野女子学院中学校(現 武蔵野大学中学校)、1977年3月に武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)、1981年3月に武蔵野女子大学(現 武蔵野大学)の文学部日本文学科を卒業。大学卒業後は母校の学校法人に就職。学生課、秘書室、経理課、人事課長、学術事業事務室長、中高幼保事務部長などを歴任し、2023年9月から武蔵野大学附属幼稚園の副園長と中高幼保事務部参事を務める。

1000人以上が楽しんだサザンオールスターズの公演

「私は“摩耶祭学部摩耶祭学科”に入ったようなものなんです」

武蔵野女子大学(現 武蔵野大学)に入学した理由について、おどけてみせるのは白鳥仁恵さんだ。現在は武蔵野大学附属幼稚園の副園長と中高幼保事務部参事を務める。

摩耶祭は大学祭として例年秋に行われる。1977年3月に武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)を卒業した白鳥さんは、大学生になったら摩耶祭に関わりたいと考えていた。武蔵野女子大学に進学してほどなく、摩耶祭実行委員会の一員となった。白鳥さんが明かす。

「高校生のときの体育祭で白い剣道着を着て応援団をしました。友だちと応援コールや振りつけを考えるなかで、自分たちが盛り上がるのではなく、周りをどう巻き込むのか、イベントの準備そのものが楽しい自分に気づいたんです。ですから、大学に入ったら摩耶祭の実行委員になって裏方として盛り上げたいと思っていました。当時はコンサートも前夜祭と本祭の2つがあり、ARBと海援隊、今では考えられない長渕剛と浜田省吾という組み合わせで開催したときもありました」

摩耶祭実行委員会としてのハイライトの一つが、サザンオールスターズの公演だ。白鳥さんが大学2年のとき、1978年6月25日に「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たすことになるバンドをプロモーターから紹介された。デモテープを聴いた白鳥さんたちはすぐに「この人たちは天才だ」という意見で一致し、1週間ほどで正式に出演を依頼した。

今では押しも押されもせぬ国民的バンドだけれど、当時は世に出たばかりの新人たちで、不安があった。白鳥さんは振り返る。

「とにかくデビューしたばかりだったので、人が集まるか心配でした。でも、杞憂でしたね。秋には大ヒット。前売りの1000席は完売しました。第一体育館から正門まで続く長い列に慌てて、当日急きょ100席を追加して、結局、立ち見も出すことになりました」

白鳥さんは「あの場を乗り切れたのは、先輩や大学職員の方々のおかげです」と続ける。今ではどの団体も3年生がいて当たり前だが、武蔵野女子大学と武蔵野女子大学短期大学部が一緒に活動していた当時、短大生の卒業に合わせて大学生も2年生で引退するのを慣例とする団体が多かった。摩耶祭実行委員会もその一つだったものの、初めて摩耶祭を経験した1年生のとき、白鳥さんたちは中心で活動した大学2年生が短大2年生と一緒に引退するデメリットは大きいと考え、次につなげるためにも短大2年生の卒業と大学2年生の引退を切り離して残ってほしいと相談した。このとき、残ってくれた大学3年生の経験と、大学職員の協力があったからこそ、予想外の状況に対応できたと感じている。

“武蔵野”という名前に惹かれ、中学受験を決意

高校時代は書道部とソフトボール部に在籍 高校時代は書道部とソフトボール部に在籍

白鳥さんは12歳の春から半世紀、武蔵野キャンパスに通い続けている。武蔵野女子学院中学校(現 武蔵野大学中学校)に入学後、武蔵野女子学院高等学校と武蔵野女子大学を経て、そのまま学校法人の職員となった。

小学生のとき、家族も周囲も私立中学校を受験するとは考えていなかったという。でも、白鳥さんだけは違った。小学6年生のとき、不意に武蔵野女子学院中学校で学びたいと思った。白鳥さんは笑う。

「ある本に出ていた“武蔵野”という言葉の響きに惹かれた、そんな稚拙な理由です。単純ですよね。ただ、仏教にも興味がありました。それこそ、両親が広島県の出身で『安芸門徒』と言われる浄土真宗の門徒だったせいか、お仏壇に手を合わせたりお供えしたり、小さなころから自然な環境だったので、これもご縁ですよね」

一本に絞った中学受験では見事合格を果たす。“武蔵野”に通い始めた中学では書道部に在籍しながら、先輩たちと一緒にバドミントン同好会を部活動に昇格させた。高校では書道部の活動に励む傍ら、ソフトボール部では1塁を守っていた。「勉強の話は何もできませんけれど」と謙遜する白鳥さんの青春時代は、掛け値なしに充実していた。

中高では聖歌隊にも所属した。仏教行事の仏前荘厳では白いガウンを着て、文庫本ほどの大きさの『礼讃抄』にある仏教讃歌を歌った。その経験は何ものにも代え難いという。

「宗教の時間や仏教行事で聞いた話は、当時、ぼんやりとしか理解できていなかったと思います。ただ、仏教の教えがゆっくり沁み込んだのは間違いありません。卒業生の私にとって、建学の精神や仏教の教えは『智慧と慈悲』という言葉に象徴されますが、どちらもずっと心の真ん中にあり、自身に問い続けてきました」

職員に声をかけられ、採用試験を受けて母校で働くことに

「智慧と慈悲」という考え方が心の真ん中にある 「智慧と慈悲」という考え方が心の真ん中にある

武蔵野女子大学の文学部日本文学科に入ってすぐ、かつて心をときめかせた“武蔵野”を眼下にして胸がいっぱいになった。詩人の石川啄木に影響を与えた土岐善麿先生──歌人としては土岐哀果の号で知られる──による「仏教と日本文学」の最初の講義での出来事だ。白鳥さんの記憶が鮮やかによみがえる。

「土岐善麿先生がみんなを1号館の屋上に連れて行ってくださいました。それで順番に給水塔に登るように伝えられて、『あなたたちはこの武蔵野で勉強していくんだから武蔵野の台地をよく見なさい』って言ってくださったんです。とても天気の良い日でした。当時、周りに高い建物はなく、富士山もよく見えて、武蔵野が一望できて感動したのを覚えています」

大学では“摩耶祭学部摩耶祭学科”で忙しくする一方、勉学にも励んだ。国語と書道の教員免許を取り、図書館司書と司書教諭の資格も取得した。濃厚な大学生活を送るなか、一般企業への就職を考えたけれど、摩耶祭の運営でやりとりしていた職員に声をかけられ、採用試験を受けて母校で働くことになった。

就職後はさまざまな部署や役職を経験した。学生課や秘書室、経理課や総務課で仕事をし、人事課長や学術事業事務室長、大学事業会社の常務、中高幼保事務部長など責任ある立場も務めてきた。2023年9月からは武蔵野大学附属幼稚園の副園長と中高幼保事務部参事を兼任する。生徒として武蔵野の50周年、職員として60周年、70周年、80周年、90周年という節目に立ち会ってきた白鳥さんは言う。

「12歳の春から武蔵野しか知らない私は井の中の蛙かもしれません。ただ、母校に残った卒業生の事務職員だからこそできることもあるし、建学の精神の伝承も意識してきました。2024年には100周年になりますが、私は『ありがとうございます』と言いたいです。『自分たちの努力は3分の1に過ぎず、3分の1は先人の努力やこれまで支えてくれた人たちのおかげ。残りの3分の1は目に見えない仏様の大きな計らいのおかげ』と田中教照前理事長に教えていただきましたが、だからこそ迎えられる100周年だと感じているからです。この年齢になると、夢を語れる若い人たちと違い、夢よりも思い出のほうが多くなりますが、この武蔵野で多くのことを学び、育てていただきました。これからもご縁をいただいた方々の笑顔を支えていけたら幸せです」

12歳の春から武蔵野でずっと過ごしてきたからこそ、伝えられることがある。正真正銘の生え抜きは、感謝の気持ちを胸に、愛する武蔵野の発展にこれからも貢献していく。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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