武蔵野マガジン

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支え合うことの大切さを学んだ7年間|福田裕子さん

文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、鷹羽康博

福田裕子(ふくだ・ひろこ)さん|武蔵野女子大学マンドリンクラブOG
東京都出身。旧姓は花岡。1979年3月、武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)を卒業。1983年3月、武蔵野女子大学(現 武蔵野大学)の文学部英米文学科を卒業。武蔵野キャンパスで好きだった場所の一つは噴水だという。大学卒業後は鉄鋼や鉄鋼材料などの仕入れ販売を行う商社に6年間勤務した。趣味は落語鑑賞やミュージカル観劇、城めぐり。2007年に乳がんを克服し、「生きてるうちが丸もうけ」という言葉を心に刻む。

学園祭で荒井由実や井上陽水などの曲を披露

えんじ色のネクタイが入学の動機となった えんじ色のネクタイが入学の動機となった

入学の大きな決め手となったのは制服だ。特にえんじ色のネクタイが可愛らしいと思った。あの制服で3年間を過ごしたい──至極純粋な動機で、公立中学校から武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)へと進学した。学校見学に訪れた際、緑豊かな環境にも目を引かれていた。

入学してほどなく、やりたいことが見つかった。福田裕子さんは記憶をたどる。

「音楽が好きでしたし、幼少期からピアノは習っていたんですけど、ギターも弾いてみたかったのでフォークソング部に入りました。六つ年上の兄がギターをやっていたので、その影響もあったかもしれません」

すぐに本気になった。ギターを購入し、部活の時間では先輩から手ほどきを受け、下校後も毎日のように自宅で練習に励んだ。同じくフォークソング部に入ったクラスメイトらとともに放課後にいくつものコードを学んだ時間は、かけがえのない思い出だ。学園祭では当時はやっていた荒井由実や井上陽水、あるいはグレープなどの曲を披露した。

高校時代はフォークソング部で活動 高校時代はフォークソング部で活動

高校3年次の修学旅行も忘れられない。福田さんの声が弾む。

「北海道と九州の二択だったんですけれど、私は九州を選びました。寝台列車での移動は特に楽しかったですね。寝ないでみんなでわいわい過ごしたのを覚えています。友人たちとの旅行はそれが初めてだったんですが、長崎県の旧グラバー住宅を見学したり、雲仙温泉に出向いたり、本当に宝物のような時間を過ごすことができました」

えんじ色のネクタイに誘われて入学した学び舎に対しては、感謝の思いしかない。控えめな自分の性格と学校の穏やかな雰囲気の相性は良かったし、それぞれの個性を認めてくれる校風も大好きだった。フォークソング部の仲間もしかり、一生の友人もできた。

アメリカを訪れ、武蔵野女子大学の英米文学科に進学

武蔵野女子学院高校に通っていた際は、九州以外にも旅行に出かけた。高校2年生のとき、母親と一緒にアメリカを訪れた。遠い親戚がロサンゼルスに住んでいた。福田さんが説明する。

「母の従姉が戦争中に神戸からアメリカに渡って、そのまま移住していたんです。英語は中学のときから好きで得意な科目だったので、『英語でコミュニケーションがとれる』とわくわくしました。1週間くらいの滞在でしたね。ロサンゼルス近郊にあるディズニーランドや大峡谷のグランドキャニオンに連れていってもらったことはよく覚えています」

英語が好きで、アメリカ旅行も経験した福田さんは高校卒業後、武蔵野女子大学(現 武蔵野大学)の文学部英米文学科に進学する。生まれて初めての海外旅行でアメリカの風を感じ、世界に対する憧れが強まった。

英米文学科の友人とは今でも付き合いがある 英米文学科の友人とは今でも付き合いがある

同時に将来のことも考え始めた。「英語の先生になるのもいいのではないか」と考え、教員免許の取得をめざした。教職課程の講義を受講し、曰く「めっちゃ勉強しました」。大学4年のときには教育実習を行い、中学1年生と中学2年生に英語を教えた。結局、先生にはならなかったが、充実した時間を過ごせたと感じている。

「1年生はみんな新しい教科の英語に興味津々で、教材を⼀生懸命つくると真剣に向き合ってくれるんです。ただ、2年生になると英語が苦手な子が出てきて、そういう子たちにどうやって英語を好きになってもらえるか試行錯誤しました。徹夜で資料をつくったこともあります。最後のほうはみんなが懐いてくれて、いい思い出になりました」

勉強に励み、アメリカでホームステイも経験する傍ら、息抜きもした。英米文学科には静岡県や群馬県から上京している同級生がいて、講義がないときはその友人たちの下宿先に足を運び、他愛もない話をして笑い合った。その関係は卒業後も続く。英米文学科で同じ時間を過ごした友だちとは今でも連絡をとり合ったり、定期的に食事を楽しんだりしている。

マンドリンクラブではパートリーダーを務める

大学ではマンドリンクラブに在籍 大学ではマンドリンクラブに在籍

武蔵野女子大学に入ると、ギターをマンドリンに持ち替えている。黒いロングスカートの女性がイタリア生まれの8弦の弦楽器を優雅に弾いているテレビシーエムを見て魅力を感じ、マンドリンクラブに入部した。

配属されたのは裏メロディーを弾くセカンドのパートだ。最初に抱いたエレガントなイメージとは裏腹に、クラブの活動は厳しかった。福田さんは言う。

「どちらかと言えば“体育会系”だったんですよね。夏休みには菅平高原や河口湖で合宿を行うんですが、朝は6時起床。ラジオ体操を済ませて朝食を食べて、掃除などをしたら、すぐに練習でした。他大学との連合で行われるコンサートが年に1、2回あるので、それに向けて練習あるのみという感じでしたね。先輩たちの指導も力が入っていました」

4年次にはセカンドのパートリーダーを任された。日本青年館などで開かれるコンサートを成功させるため、後輩に熱っぽく指導したこともある。それでも、学年は違えど裏メロディーを弾く同士、「縁の下の力持ち」で目立たずとも全体を支える性格が似ていて、うまが合った。高校時代や英米文学科の友人たちと同じく、マンドリンクラブとの仲間との付き合いは今も続いている。

武蔵野キャンパスでは生涯の友ができたという 武蔵野キャンパスでは生涯の友ができたという

武蔵野キャンパスで過ごした7年間では生涯の友がたくさんできた。ときに互いに弱みを見せながら助け合ったから、その関係は濃厚だ。福田さんは柔らかい笑みを浮かべる。

「武蔵野女子学院高校と武蔵野女子大学では、仲間がいるから、いろいろと頑張れるという経験ができました。そのころの友人たちと今でも接点があるのは深い絆ができたからこそだと思っています。仏教には『生きとし生けるものが支え合う』といった考え方がありますが、支え合うことの大切さを学んだ7年間でしたね。大学卒業後に就職した鉄鋼や鉄鋼材料などの仕入れ販売を手がける商社でも、お互いに寄り添い合うことができました。武蔵野キャンパスでの時間がそうさせてくれたんだと実感しています」

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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