武蔵野マガジン

おしえて!同窓会のみなさんQ&A

悩むときは“自分は今、何が一番したいのか”と問いかけて|くれない会会員 マルテンゼン 美智子さん

同窓会組織・支部・会員のみなさんにお話を伺いました。

くれない会会員 マルテンゼン 美智子さん

マルテンゼン 美智子さん|くれない会会員

武蔵野女子学院中学校卒業(1959年度卒)・高等学校卒業(1962年度卒/高校14回生)。1967年3月、武蔵野音楽大学声楽学科卒業。卒業後はヤマハ音楽財団に就職。音楽教室の講師を2年勤めてから1969年に結婚、夫と共にドイツに渡る。フレンスブルク音楽学校でオペラを習うと共に、音楽学校の中の音楽教室で子供たちの指導にあたる。1971年、アウクスブルクに移り、レオポルト・モーツァルト音楽院でオペラを学ぶ。1972年、夫の仕事の関係でエルデというドイツ中部の街に移り、ドルムントにある州立音楽大学で再びオペラを専攻。1974年、長男が生まれ、夫は念願の日本での職を得て親子3人、日本に戻る。1980年代にNHKの仕事を始め、今に至る。

どのようなお仕事をされていますか?

私は音楽の道に進み、オペラ歌手を目指しました。しかし、甘かった! 人間、努力さえすれば目標を達成できる、と信じて疑いませんでした。高校の頃、自分は歌が得意で、自信満々でしたが、武蔵野音楽大学の試験を受けたとき、打ちのめされました。試験場には上手な人がいっぱい! 私は井の中の蛙だったのね!と。

24歳でドイツ人の男性と結婚しました。彼は素晴らしい人で、これまでのすべての計画を断念し、彼について行こうという決心をさせてくれました。家族、親類は「彼のこと、何も知らないじゃないか。ドイツに行ってみたら家もなく、惨めな生活をすることになるのでは」と心配してくれましたが、「彼と一緒に暮らせるなら掘っ建て小屋でもいい」と言いました。

夏のフレンスブルク 夏のフレンスブルク

ドイツで最初に住んだバルト海の入り江の街、フレンスブルクではフレンスブルク音楽学校でかつてのプリマドンナ、ヒルデガルド・ボップさんにオペラを習いました。それと同時に、音楽学校の中でヤマハスタイルの音楽教室を開いて子供たちに教えました。その際、音楽学校の校長は武蔵野音楽大学の卒業証書より、ヤマハ音楽教室で教えていたという証明書を見たがりました。その後、別の街に移りながらも、ドイツには5年間住んでいました。

今の仕事はNHKワールドニュースで、時間差同時通訳をしています。それから、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)でドイツ語講座を担当しています。これもドイツ語のおかげです。音楽とは全く関係のない仕事をしている自分に驚いています。

学校生活では、どんな思い出がありますか。

部活は社会科班でした。社会科班の機関紙に平将門について調べたことを載せました。当時私は平将門が大好きでした。社会科班の顧問でもあった乗元先生が、授業中にこんなことをおっしゃいました。「武蔵の国には乱暴で荒っぽい人間が多い。近藤勇とか平将門とか…渡辺美智子とか……」。笑ってしまいましたが、嬉しかったことを思い出します。

学校生活といえば最近、素晴らしいことが起こりました。中学時代に仲良くしていた宮内登美子さんと60年ぶりにお会いして、旧交を温めていることです。時々、彼女のリコーダーと私のチェンバロと合わせて楽しんでいます。

ライフワークを教えてください。

私のライフワークはやはりワールドニュースでしょうか。

同窓生に向けたメッセージをお願いします。

今の人は結婚に消極的だということですが、なぜそんなに慎重になるのでしょう。

相手の収入とか学歴とか経済的理由とか両親の意向とか、そんなことは重要ではありません。好きな人と一緒にいたい、結婚にはそれだけの理由で良いのです。あとは努力でどうにでもなります。結婚か仕事かと悩むときは“自分は今、何が一番したいのか”と問いかけてみればいいと思います。

まずは今、一番やりたいことをやることです。そのときあきらめたと思っていることも、いつかまた巡り巡って自分の前に現れるかもしれません。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学部・学科は卒業当時の名称です。

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