武蔵野マガジン

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キーコの青春|澤浦京子さん

文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、小黒冴夏

澤浦京子(さわうら・きょうこ)さん|株式会社リタアイズ代表取締役
旧姓は松浪。大阪府池田市出身。1984年3月に武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)を卒業。1986年3月に武蔵野女子大学短期大学部幼児教育科を卒業。株式会社リタアイズ代表取締役として群馬県高崎市でリタアイズという名のまつげエクステ専門店を運営。2018年に路面店をオープンさせた。宮城県仙台市に拠点を持つまつげエクステ総合教育機関のリタアカデミーの群馬校認定講師も務める。

樹華祭では松任谷由実の「守ってあげたい」を合唱

高校時代の写真。後列右端が澤浦さん 高校時代の写真。後列右端が澤浦さん

「キーコ」と呼ばれていた。京子をもじった愛称だ。そばにはいつもヘレンがいて、ゆりちゃんがいて、松がいて、よねちゃんがいて、大久保ちゃんがいて、そんちゃんがいて、ブヨがいて、ほかにもたくさんの友人がいて、そこには青春のきらめきがあった。

1980年4月、武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)に入学した澤浦京子さんは、その後、かけがえのない存在となる友人たちと少しだけはみ出した。楽しそうに話す。

「そのころ、吉祥寺にピザやポテトが食べ放題のお店ができたんです。校則では禁止されているんですよ。放課後に飲食店に寄るのはだめだったんですが、制服姿で何度かこっそり立ち寄りましたね。お皿いっぱいにピザをのせて『こんなに食べられないよ』とか言って笑い合って、そういう経験は楽しかったですね」

阿部先生(前列中央)を囲むように定期的に集まる 阿部先生(前列中央)を囲むように定期的に集まる

文化祭にあたる樹華祭の記憶も鮮明だという。高校3年生のとき、クラス全員で「必殺仕事人」を舞台で演じ、松任谷由実の「守ってあげたい」を合唱した。澤浦さんは懐かしそうに振り返る。

「『必殺仕事人』はみんなで力を合わせて舞台設定をしたり、本番に向けて練習をしたり、とても印象に残っています。『守ってあげたい』は当日見事にハモって綺麗だったので、歌っていいなあと思ったのを覚えていますね」

スキー教室での失態も忘れられない。スキー初体験ではやる気持ちを抑えきれないキーコは、先生の説明の間に滑り出してしまった。正しい姿勢を知らないまま直角降で滑り降りていく。先生の話を聞き流していたから、止まり方も転び方もわからない。「キーコ、やばいよ!」という声が聞こえるなか、スピードはどんどん上がっていく。なんとか尻餅をついて事なきを得たけれど、そのときの恐怖は今でもよく覚えている。

武蔵野女子学院高等学校の思い出はどれも同じだ。3年間のどの場面でも、濃厚な時間をともにした親友たちの笑顔が浮かぶ。青春時代を過ごした友人たちとは、お世話になった阿部美枝子先生を囲むように今でも定期的に集まっている。

武蔵野女子大学短期大学部に進学し“美”に目覚める

高校時代は目立つ存在ではなかったという 高校時代は目立つ存在ではなかったという

武蔵野女子学院高等学校を選んだのは、自然豊かな環境を気に入ったからだけではない。その先を見据えていたからだ。武蔵野女子大学短期大学部幼児教育科で学びたかった。

父親の仕事関係の社員寮に住んでおり、年下の子たちと遊んであげるのがずっと好きだった。「箱をつくってリボンをつくってちょっと何かを入れてあげるとか、そういうことをして喜んでもらえるのがすごくうれしかったんです」と笑う。

武蔵野女子大学短期大学部幼児教育科に進学後は、さらに青春を謳歌する。高校時代はそれほど目立つ存在ではなかったキーコは、それまでの分厚い眼鏡をコンタクトに変え、メイクアップし、髪型を人気のヘアスタイルにセットし、流行りの派手めの服を着てと、“美”に目覚めた。今会うと、高校時代の友人からは「あのころのキーコ、別人になってたよね」と指摘されるという。澤浦さんは少しだけ恥ずかしそうに懐かしむ。

短大時代の写真。澤浦さんは後列右端 短大時代の写真。澤浦さんは後列右端

「ちょうどバブルの時代ですよ。お立ち台にこそ立ちませんでしたが、そのころ流行っていた大きなバッグを持って、他大学の音楽サークルに入ってフリーマーケットや何かのイベントでターンテーブルを回して音楽を楽しんだり、長野県の白馬のペンションにみんなで泊まりに行ってテニスをしたりしていました。若気の至りっていうやつでしょうね」

はでやかな格好と生活をしていたとはいえ、曰く「根はまじめ」。講義をきちんと受け、ピアノも懸命に練習し、幼稚園での実習もしっかりこなし、幼稚園教諭の免許を取得した。幼稚園に勤める選択肢もあったけれど、就職活動で大手銀行から合格をもらい、銀行員になる道を選んだ。

その後、結婚して神奈川県横浜市から群馬県高崎市に引っ越し、3人の子どもに恵まれた。しかし、自身が33歳のとき、悲劇に見舞われる。実母が敗血症で亡くなってしまった。突然の別れに、澤浦さんはほとんど抜け殻になってしまった。

社名のリタアイズは仏教の「もう」に由来

沈む澤浦さんに転機が訪れる。ママ友から「エステサロンを開業するから手伝ってくれない?」と誘いを受けた。美容業には以前から興味があったから、二つ返事で引き受けた。そのころはまだ接客は得意とは言えなかったけれど、お客さまと触れ合っているうちに、母の死の悲しみは母への感謝へと変わり、起業する夢を持つようになった。澤浦さんが説明する。

47歳のとき、美容専門学校に通い始めた 47歳のとき、美容専門学校に通い始めた

「ママ友のエステサロンで、当時はまだあまり知られていなかったまつげエクステンションに出合ったんです。地まつげ1本に人工まつげ1本を装着する技術なんですが、とても興味が湧きました。そして、東京の表参道にまつげエクステンションスクールがあるのを知り、小学6年生だった次女を連れて月に2回、高崎から通うことにしました」

スクールの検定試験で1級に合格して事業をスタートさせたものの、2008年、厚生労働省からまつげエクステンションを施術するには美容師免許の取得が必須という通達が出た。廃業ももぐりも選択肢になく、正々堂々と美容師免許を取ろうと決めた澤浦さんは47歳のとき、美容師専門学校に通い始める。わが子と同じくらいの年齢の仲間たちと必死に学んだ2年間は、“第二の青春”だった。

見事、美容師免許を取得した澤浦さんは2011年に個人事業主となり、まつげエクステンションのサロンを始めた。それから3年後の2014年には法人化し、株式会社リタアイズを立ち上げている。社名には仏教の教えが反映されているという。

2018年に路面店をオープンさせた 2018年に路面店をオープンさせた

「実業家の稲盛和夫さんも大切にされていた言葉で、『忘己利他』という考え方が仏教にはあります。『自分のことを忘れるほど、ほかの誰かのために尽くす』という生き方なんですが、やっぱり武蔵野での仏教の学びが私の根底にはあるんだなと実感しています。『利他』という意味では、娘が美容師免許を取ってネイリストになったので、親子二人で老人ホームや介護施設でハンドケアやネイルを施す活動をしていきたいと考えています」

心に刻むのは「百術は一誠にしかず」という言葉だ。一つの誠意こそが人の心を動かすと考える澤浦さんは、これからも真心を尽くして生きていく。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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