静謐の聖語板に見出してきたこと
有明キャンパス正門、武蔵野キャンパス正門・北門に設置されている「聖語板」を覚えていますか?
先人のことばを月替わりに掲示しています。
在学時、何気なく見過ごした言葉、瞬時に腑に落ちた言葉、場面を具体的にイメージできる一文、また、思わずその意味を自身に問い掛けた経験はありませんか。
そして、1カ月間、朝に夕に目にすることで、じっくりと心に沁みこんでくる言葉がありませんでしたか?
今も変わらず、「聖語板」は学生に、教職員に、大学を訪れる人に静かに語りかけています。
7月の聖語
「悲しみを通さないと みえてこない世界がある」
東井義雄
今月の聖語は、教育者であり浄土真宗僧侶でもあった東井義雄さんが書かれた詩の一節です。
「浴子さん」というタイトルの詩の中にはこう記されていました。
(前略)
「悲しみに であったおかげで
今まで 見えなかった世界が
見せていただけるようにもなった」
と言ってくれる 浴子さん
(後略)
浴子さんは東井義雄さんのご長男、義臣さんの奥さまです。義臣さんは小学校の先生でしたが、体育の時間子どもたちと一緒に走っている途中、突然倒れてしまいました。急性心不全による意識不明の状態。働き盛りの46歳でした。
実はこの3年前、東井義雄さんは75歳のときに胃癌摘出手術を受けています。晩年書かれた東井さんの詩には、
「どんなに重い荷物であっても たといそれが「死」という荷物であっても それが 私の荷物であるなら ありがとうございます と 拝んで 受け止めさせていただく覚悟はできていた」
と綴られていました。そしてこう続けるのです。
しかし
代わってもらえないことよりも
代わってやれないことが
こんなに きびしく
やりきれないことであるとは
知らなかった
代わってやれないということは
自分が死を賜ることよりも
つらいことであったのか
そのことを
倅よ おまえは
こんな形で
私に 教えてくれるのか
テレビで報じられる悲しいニュースを目にするたびに、「家族はどんな気持ちなんだろう」と一瞬その悲しみに心を寄せてみることがあります。が、自分事ではない出来事にどれだけ心を寄せたところでそれは所詮上辺の同情。自分の身に起こらないことには真に理解できないのが悲しみという感情なのだと思います。
そして、悲しみの中に身を置いてはじめて見えてくるのが「あたりまえ」のありがたさなのではないでしょうか。「いってらっしゃい」と送り出す。「おかえり」と迎える。そんな「あたりまえ」の日常は明日も必ずやってくるとは限りません。
「毎日を慈しみながら大切に生きなくてはな」
聖語を見るにつけ、またしても思いを新たにする7月なのでありました。
<参考文献>
「おかげさまのどまんなか | 東井義雄(佼成出版社)」
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