静謐の聖語板に見出してきたこと
有明キャンパス正門、武蔵野キャンパス正門・北門に設置されている「聖語板」を覚えていますか?
先人のことばを月替わりに掲示しています。
在学時、何気なく見過ごした言葉、瞬時に腑に落ちた言葉、場面を具体的にイメージできる一文、また、思わずその意味を自身に問い掛けた経験はありませんか。
そして、1カ月間、朝に夕に目にすることで、じっくりと心に沁みこんでくる言葉がありませんでしたか?
今も変わらず、「聖語板」は学生に、教職員に、大学を訪れる人に静かに語りかけています。
6月の聖語
「人間の出会いは 人間の心と心のつながるときで そのときは言葉はいらない」
両手両足を失いながら
「人生に絶望なし」と生き抜いた
中村久子さんのことば
今月の聖語を見て、中村久子さんという女性がどのような人生を歩み、聖語板にある心境にどのようにたどり着いたのか知りたくなりました。
中村久子さんが生まれたのは1897年(明治30年)。2歳の冬、左足に発生した凍傷がもとで突発性脱疽になり、その後両手両足の切断を余儀なくされます。久子さんの母親は久子さんが自分でなんでもできるようにと心を鬼にして厳しくしつけました。
母は容赦しなかった。やればできます、と鋏と着物を彼女の丸い腕にもたせた。
「中村久子の生涯 四肢切断の一生 | 黒瀬曻次郎(到知出版社)」より
久子さんの凄まじい努力により、彼女は縫い物、編み物、筆記を一人でこなせるまでに。ですが彼女の家の生活は非常に苦しく、20歳の久子さんは悩んだ末に見世物小屋に身を置くことを決意します。決意させられた、という言い方のほうが正しいのかもしれません。
1930年(昭和5年)。見世物小屋が休みの日、久子さんが何気なく見ていた月刊誌「キング」のある記事に、座古愛子さんというリウマチのため首から下は動かず、しかし神戸女学院で購買部を受持ち、自力で自分の生活を営んでいる女性が紹介されていました。
ベッドに寝ている座古愛子さんの顔は明るく輝いていて、その神々しさに久子さんは驚いてしまいます。そして、彼女に会いに行くのです。
「中村久子の生涯 四肢切断の一生 | 黒瀬曻次郎(到知出版社)」より
このときのことを、久子さんは「重度の身体障害者にのみ与えられた魂の交流をする世界。それはどんな尊い数秒間だったろう」と述懐しています。
久子さんの歩んできた人生は「苦労」「苦難」という言葉では到底言い尽くすことのできない、それはそれは険しいものでしたが、この座古愛子さんとの出会いにより「今まで神や仏や親までも恨んでいた私は、罰あたり者ではあるまいか」という心境に初めて至ったそうです。
久子さんの背景を知れば知るほど今月の聖語はずっしりと重く、「毎日いちょう並木の下を歩く」そんなことさえも当たり前ではないんだな、と気づかされます。久子さんのような「人間の心と心がつながる」そんな出会いをはたして自分は経験することができるのかはわかりませんが、この聖語と出会い「当たり前は当たり前ではない」ということに気が付けたこと。これは大きな収穫だったのではないかと思います。
<参考文献>
中村久子略歴(付録2)「中村久子の生涯 四肢切断の一生 | 黒瀬曻次郎(到知出版社)」
※記事中の年齢は数え年です
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